December 2009
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343 名無しさん@恐縮です [sage] 2009/12/20(日) 13:33:28 ID:ZFvPFOoB0 Be:
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– 【音楽】アホ来日 [chaika]
作家とは、詩人にせよ物語作者にせよ、衆人のなかで、勇を鼓して満場の沈黙を破って口を切る一人の人間に他なりませぬ。 P.396 “文学的思い出” Paul Valéry
批評は文学自身を課題とする文学である。この条件で十分である。結果として、種類形態に関し、文学におけるありとあらゆるものが、批評の裡に生ずるし、批評にも現実派あり、印象派あり、或いは独断家あり、空想家ありということになる。私は、チボーデを抒情派の列に加えたい。もっとも、彼の一流史家としての仕事において、彼が見失わぬ正確さへの気遣いと、更に又、どんな膨れ上がった外皮でも、忽ち貫き通してしまう、洵に繊細な精神とのゆえに、彼の批評の抒情性は程よく緩和されてはいた。 P.377 “アルベール・チボーデ追悼” Paul Valéry
著作の中には、それに附いているノートがその著作に価値を与えているのが少なくない。 それについて言い得ることは、綿密な読書とは絶えざる注釈であり、内面の声が発する音(Note)の連続だということである。そして余白に書き入れられるノートはかかる思想の一部をなしている。 或る読者にとって或る著作が有する価値は読むことと並行して呈されるかかる反応の価値によって決定されるのであり、著作自体は結局は劣悪であると判断されるにしても、もし以上の意味でのノートが多数に上り、明確な内容を有するならば、その著作が読者を刺戟することに掛けての価値は実証されるのである。 (以下引用) 私は考えた挙句、読者の頭の鋭さおよび想像力を大に信用することにした。しかしこの信仰の力が不足するような場合においては、何のことか解る程度に、ノートを作り変える他、途はないようだった。 ...
従って、『半獣神の午後』は取り除くことにして、この詩篇に関しては、―瑣事ではあるが、奇妙で全く意味深い―次の挿話だけしか語るまい。それは、クロード・ドビュッシーがマラルメの詩篇のために一楽曲を作ったので、マラルメはあまり満足でなかったということである。彼としては、彼独自の音楽だけで十分であり、いかに美しい音楽であろうとも、これを自分の詩歌に並置せしめることは、それがどれほど良い意図を持ってなされるにしても、詩歌に対する真の侵犯であると考えていたからである。 P.76 “ステファノ・マラルメ”
Paul Valéry 『マラルメ論叢』
確かに日本は文化にかける予算が著しく低く(国家予算の0.1%前後らしい)、それは嘆かわしいことに違いないけれど、もともと「国」に文化的見識などあるはずもない。もし...
– 国家と芸術2(…さらに偉そうに): 八分音符の憂鬱
2)アンダーグラウンドミュージックビジネスの5年後をどう予測しますか?
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– DJ EMMA | [m] マンハッタンレコードオンラインストア (via loopdrive) (via souchou)