国民の血税を使わせてもらって役にも立たない研究をさせてもらっているのだ。徹底的に安くしろ。 - 小柴昌俊
Mio Continuo
理想的な管弦楽法、それは美味しいソースのようなものだ。そのソースがどんな調理法によるのか、そのソースを構成する原料が何かを知ってはいけない。全体的な印象を得ることが重要であり、その中にすべての要素が溶け込んでいるのだ。 - Alexander Scriabin
本を捨てる話
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本を捨てている.こういったことを書くのは2回目だ.最初は実家から出る直前.蔵書の半分以上を売った.それでも東京のこの部屋に保持するには多すぎる本があったし,それを読む時間ももうない
厳選した1部分をむかしの友人に郵送した.彼にこれを読んでもらえたらうれしいと思う(そして他人にそんな期待をすることは稀であるはずだ)本であり,やはりもうぼくが読むことのない本でも売り払えないだけの執着のある本だ.残った大部分は,あす(090927)にbook offが出張買い取りに来る.たいした額にならないだろう.じぶんの体の一部を切り刻んでいるような痛みがある.それでもぼくは本を捨てる
そもそも本を捨てていることを記すこと自体が感傷だ.ぼくは,世間では本好きの部類に入るだろう.今回捨てる本のいくらかは,ぼくの人生を大きく変えたものやぼくを形作っているもの,つらいときにぼくの支えになったものだ.それでもぼくは本を捨てる.もう一回言おう,ぼくはぼくの本を捨てている:ぼくの一部を切り捨てている小学校1年生のときに,1年で1000冊の本を読んだ.読書カードをつけるという制度が学級にあり,それを増やすことが楽しかった.子供向けの絵本のような本ばかり1000冊だ.学級で3番目くらいにたくさん読んでいたと思う.記憶は定かでない.物語の中に大きな自由を感じ,世界を行き来する力にぼくは恍惚としていた.本に関する次の大きな記憶は,小学校4年生のときにある;映画「梟の城」を父親と2人で観て,そのあと司馬遼太郎による原作を買ってもらった.それは,ぼくが始めて読む”大人の本”だった.作品自体のおもしろさの虜になったぼくは父の蔵書から司馬遼太郎を引き抜いては読みあさった.そして,貧弱な父の蔵書からぼくの気に入りそうな本がなくなった.ぼくは適当な本を父にねだっては,買ってもらっていた
中学生のぼくは,自転車を使うようになり,行動範囲が広がった.友人のいない金銭を持たない子供がいける場所は限られている.ぼくは,毎日図書館に行き,そこで本を読み週に10冊は借りていた.気に入った本のあとがきで言及されている作家や作品があれば,それを探し,webで言及されている本があれば,それを予約し,読める本は何でも読んだ.小説,まんが,ブルーバックス,エッセイ,哲学の入門書,SF….控えめに言って,青背であるなら,近所の市立図書館のものを読破していると思う.イーガンやクラーク,この時代にであってぼくの人生を変えた本は,非常に多い.さらにぼくの田舎には,古書好きに有名な古書店があり,そこもぼくのお気に入りの場所だった.23時まで営業しているそこにぼくは塾のあとに立寄り閉店まで立ち読みをして,ときどき本を買っていった.そして,当然のことながら,この時期のぼくはたくさんのだめな本を読んだ.屑情報に触れることは,よい情報を得られるために必要条件だ.ともあれ,ぼくの暗く孤独な中学生時代は,このたくさんの本とビートルズに集約される.高校にはいるとぼくは…
まぁいいや.読書について振り返ることは,確実にある側面からぼくの人生を回顧することである構成もなにも考えずに書いている
読み返してみると,ぼくは本を好きらしい.そして,読書を語ることは,ぼくの人生を語ることらしい.大昔はほんとうにそうだったのかもしれない
ぼくは毎日読めるだけの本を読み,そこから何かを学んだり学ばなかったり,考えたり考えなかったりしたらしい.ずいぶん楽しかっただろうな
でも,そんな日々とはグッド・バイだ.ぼくは本を捨てている.感傷的な宣言だが,これはぼくの意思による目的ある行為であり,ぼくはその行く先を自覚している.あしたになるとまた部屋がすっきりする.素敵な部屋だ.オールライト,おやすみなさい090926記す



