Mio Continuo

国民の血税を使わせてもらって役にも立たない研究をさせてもらっているのだ。徹底的に安くしろ。 - 小柴昌俊

理想的な管弦楽法、それは美味しいソースのようなものだ。そのソースがどんな調理法によるのか、そのソースを構成する原料が何かを知ってはいけない。全体的な印象を得ることが重要であり、その中にすべての要素が溶け込んでいるのだ。 - Alexander Scriabin

フリーターになって一日14時間バイトしながら夢を追いかけてるバンドマンより、9時-5時で仕事が終えてアフターファイブにバンドやってる公務員の方が長く練習時間確保出来て演奏上手いとかあり得そうで怖い。 Twitter / 森井ゴンザレス (via rpm99) (via uessai-text) (via junicci) (via kondot) (via ssbt) (via petapeta) (via etecoo) (via noboko) (via jinon) (via konishiroku) (via toriaji) (via otsune) (via takaoka) (via mochilon)
コロンビア大学はあらゆる分野で世界に誇る研究・教育を行っている名門大学ですが(ちなみに数年前には、イランのアフマディネジャド大統領に講演を主催して、学内外でたいへんな議論を巻き起こしました)、なかでも有名なのが、日本の大学の一般教養課程に相当する、Core Curriculumをよばれるプログラムです。たいていどこの大学にもこうした基礎教養のカリキュラムはありますが(ちなみにブラウン大学にはそうした必須のカリキュラムがないのが特徴です。各学生の独創性と主体性に任せたより自由なカリキュラム、というのがブラウンの自慢で、これが好きでブラウンに来る学生が多いです。ただし、ある程度の学力と幅広い知的好奇心と主体性を備えた学生が集まってくる大学だからこそ成立する制度でもあります)、コロンビアでは、全学共通のシラバス(日本の大学で「シラバス」制度をとり始めたところもありますが、アメリカでいうところの「シラバス」とはまるで違うことが多いようです。要は授業要項ですが、授業の全体内容だけでなく、毎回の授業の課題を細かく指定してある、何頁にもなる書類です)にもとづいて、一年生と二年生全員が通年二年間、二十人ほどの小人数の授業で毎週四時間ずつ、西洋文明・思想の基礎を作っている古典を読んで議論する、という徹底したカリキュラムが特徴です。コロンビアのウェブサイトで、現在使われているシラバスを見ることができますが、それによると、一年生用の「人文」の授業は、ホメロスやソフォクレス、ツキディデスに始まって、創世記・ヨブ記、ダンテ、ボッカチオなどを経由して、シェークスピア、ジェーン・オースティン、ドストエフスキー、ヴァージニア・ウルフまで。二年生用の「現代文明」(なぜこの授業に「現代」という単語がついているのかは不明)は、プラトン・アリストテレスに始まって、旧・新約聖書、コーラン、そしてマキャヴェリ、ホッブズ、ロック、ルソーを経由し、スミス、カント、トクヴィル、ヘーゲル、マルクス、ダーウィン、ニーチェ、デュボイス、フロイト、ボーヴォワール。これをまだ二十歳にならない学生に毎週毎週読ませるのですから、その理念の高さにはまったくもって頭が下がります。『日本語が亡びるとき』のなかで水村美苗さんが、国語教育においては、生徒がわかってもわからなくてもとにかく近代日本文学の名作を次々に読ませることを提唱していますが、それを西洋文明・文学・思想全般に広げたものです。しかも、テキストの選択は変わっているとはいえ、この基本カリキュラムは、二十世紀前半からコロンビア大学でずっと継承されてきたものだというのですから、こうした形の「伝統」というもののすごさを感じます。教えるほうもたいへんです。私のブラウン時代の同級生のひとりが、今コロンビアの英文学部で教えていますが、人文系の教授はみな、自分の専門とかけはなれていてもプラトン・アリストテレスからなにから教えなくてはいけないので、十代の学生と一緒に自分も勉強し直しで、ヒーヒー言っているとのことでした。教えるほうがヒーヒー言っているのですから、当然学生のほうはもっとたいへんです。『ドット・コム・ラヴァーズ』の最後に出てくる「ジェフ」は学部はコロンビア出身なのですが、くらくらになりそうな思いをしながら毎週難解な古典を読み教授や同級生と議論を重ねるというこのカリキュラムが、オハイオから出てきた青年にとってどれだけ刺激的だったかということを、何度も語っていました。あの経験をしただけでもコロンビアに行った意味があったと言っていました。知的好奇心と吸収力に満ちた若者にこうした教育をすることが、どれほど素晴らしいことか。そして、バブル末期に日本の大学に行って、ちゃらちゃらと遊んでばかりいた自分の大学生活を振り返ると、なんと哀しくなることか。自分の馬鹿さを大学や先生がたのせいにするつもりはないですが、それでも、それなりに知的好奇心は旺盛で勉強する気はあって大学に入った自分は、きちんと設定と材料と方向性を与えてもらっていたら、それなりには勉強しただろうにとは思います。嗚呼。 Dot Com Lovers: コロンビア大学新学長 (via yuco) (via quote-list) (via thinkeroid) (via b0c)
紫式部は頭のいい人にしか分からない様な嫌みをポストして、清少納言はそれを淡々とファボって相手の神経を逆なでしそうなイメージです。 Twitter / hoxide (via yuria)

本を捨てる話

b0c:

本を捨てている.こういったことを書くのは2回目だ.最初は実家から出る直前.蔵書の半分以上を売った.それでも東京のこの部屋に保持するには多すぎる本があったし,それを読む時間ももうない
厳選した1部分をむかしの友人に郵送した.彼にこれを読んでもらえたらうれしいと思う(そして他人にそんな期待をすることは稀であるはずだ)本であり,やはりもうぼくが読むことのない本でも売り払えないだけの執着のある本だ.残った大部分は,あす(090927)にbook offが出張買い取りに来る.たいした額にならないだろう.じぶんの体の一部を切り刻んでいるような痛みがある.それでもぼくは本を捨てる
そもそも本を捨てていることを記すこと自体が感傷だ.ぼくは,世間では本好きの部類に入るだろう.今回捨てる本のいくらかは,ぼくの人生を大きく変えたものやぼくを形作っているもの,つらいときにぼくの支えになったものだ.それでもぼくは本を捨てる.もう一回言おう,ぼくはぼくの本を捨てている:ぼくの一部を切り捨てている

小学校1年生のときに,1年で1000冊の本を読んだ.読書カードをつけるという制度が学級にあり,それを増やすことが楽しかった.子供向けの絵本のような本ばかり1000冊だ.学級で3番目くらいにたくさん読んでいたと思う.記憶は定かでない.物語の中に大きな自由を感じ,世界を行き来する力にぼくは恍惚としていた.本に関する次の大きな記憶は,小学校4年生のときにある;映画「梟の城」を父親と2人で観て,そのあと司馬遼太郎による原作を買ってもらった.それは,ぼくが始めて読む”大人の本”だった.作品自体のおもしろさの虜になったぼくは父の蔵書から司馬遼太郎を引き抜いては読みあさった.そして,貧弱な父の蔵書からぼくの気に入りそうな本がなくなった.ぼくは適当な本を父にねだっては,買ってもらっていた
中学生のぼくは,自転車を使うようになり,行動範囲が広がった.友人のいない金銭を持たない子供がいける場所は限られている.ぼくは,毎日図書館に行き,そこで本を読み週に10冊は借りていた.気に入った本のあとがきで言及されている作家や作品があれば,それを探し,webで言及されている本があれば,それを予約し,読める本は何でも読んだ.小説,まんが,ブルーバックス,エッセイ,哲学の入門書,SF….控えめに言って,青背であるなら,近所の市立図書館のものを読破していると思う.イーガンやクラーク,この時代にであってぼくの人生を変えた本は,非常に多い.さらにぼくの田舎には,古書好きに有名な古書店があり,そこもぼくのお気に入りの場所だった.23時まで営業しているそこにぼくは塾のあとに立寄り閉店まで立ち読みをして,ときどき本を買っていった.そして,当然のことながら,この時期のぼくはたくさんのだめな本を読んだ.屑情報に触れることは,よい情報を得られるために必要条件だ.ともあれ,ぼくの暗く孤独な中学生時代は,このたくさんの本とビートルズに集約される.高校にはいるとぼくは…
まぁいいや.読書について振り返ることは,確実にある側面からぼくの人生を回顧することである

構成もなにも考えずに書いている

読み返してみると,ぼくは本を好きらしい.そして,読書を語ることは,ぼくの人生を語ることらしい.大昔はほんとうにそうだったのかもしれない
ぼくは毎日読めるだけの本を読み,そこから何かを学んだり学ばなかったり,考えたり考えなかったりしたらしい.ずいぶん楽しかっただろうな
でも,そんな日々とはグッド・バイだ.ぼくは本を捨てている.感傷的な宣言だが,これはぼくの意思による目的ある行為であり,ぼくはその行く先を自覚している.あしたになるとまた部屋がすっきりする.素敵な部屋だ.オールライト,おやすみなさい

090926記す